いつ死んでもいい
「いつ死んでもいいんです」という言葉を、時折、聞くことがあります。
その気持ちもわからないことはありません。生きていると、呼吸を、食事を、排便を、睡眠をしなければなりませんし、面倒です。どうせ死ぬのに、、、。
とはいえ、「そういう気持ちっていいものだろうか?」と私は少し違和感を感じて考えてきました。
「健康になってもらおう」と、願って一生懸命の努力をするのが私の仕事ですから、その言葉にナニカを感じたのかと思われます。いつ死んでもいいということは、確かに「生」に執着していない潔さもあります。しかし「生命」に対しての軽視になるのではないかと感じるわけです。
私たちが、おぎゃー、と生まれるために、お母さんが歓びの中にも、10ヶ月の不自由を感じ、とても痛い思いをして与えてくださった肉体生命。そして、生まれてきた我が子を見て、お父さんは心から歓んでくれたことでしょう。そして、お母さん、お父さんは、どんなに大変な生活であっても、子供の成長を何よりの喜びとして育ててくれたことと思います。様々な苦難があっても子供の健やかな成長を願い大事にして育ててくれたのです。
この大事な身体、その命をいつ無くしてもいい。とは軽々と云うことはよくないように思うのです。
私達人間が生きていくということは、決して楽なことではありません。嬉しいこと、楽しいことばかりでもありません。嫌なこと、苦しいこと、悲しいことを経験しながら自分を見つめ、自分を知る学びを深め生きているのが人生のように思うのです。
お釈迦様は人生を四苦八苦であると喝破されました。
生・老・病・死の四苦。そして、次の四苦
愛別離苦(あいべつりく)愛する者と生・死別する苦しみ。
怨憎会苦(おんぞうえく)怨み憎んでいる者に会う苦しみ
求不得苦(ぐふとくく)求める物が得られない苦しみ
五蘊取蘊(ごうんしゅく)五蘊(肉体と精神)が思うようにならない苦しみ
があるわけです。生きるということは、決して楽ではない。その楽ではない人生を、朗らかに安らかに生き抜きたいものです。
ある89歳の女性の話です。ずっと通ってくださっていたのですが、10年ほど前から心臓病が酷くなり入退院を繰り返されました。時には、病院に出張ヒーリングに伺ったこともありました。
コロナ禍になってからは、遠隔ヒーリングのご依頼を頂いています。
2年ほど前には担当医が、「80歳を過ぎて、心臓がこんなに回復することがあるんやな」と、驚いたといいます。ご本人の生きる熱意があって健康を回復されました。
「荒尾先生、もうしばらく生かしてください。まだ死にたくない。もうしばらく先生の力で生かしてください」と85歳ころにおっしゃった時には、そんなに長生きしたいのかな、と正直なところ私も思いました。それから、しばらくすると、「もう思い残すことはありません。いつ死んでも満足です。ありがとうございました」 という満ち足りた思いのような言葉を聞くようになりました。
それから時が経ちましたが、来院する娘さんから伺うお話から、とても元気にニコニコと穏やかにお過ごしになられていると聞きます。感謝の言葉がとても多いそうです。
先日、お母様と息子さんが並んだ写真を拝見すると、驚くほど穏やかな表情で姿勢も整っていて、隣に写っているお孫さんよりも姿勢がいいぐらいでした 。
杖もつかずに、散歩も楽しんでいるとのことです。
こうした心境になって、いつ死んでもいいと言える人生は素敵だと思います。